歴史

加斗の歴史

 上古の時代は若狭の国に包括され所在の部落は、血族的団体を以って形成され、一種の自治体の起源となりました。庄時代は加斗庄として大字本所にあり庄の本據(ほんきょ)を示し、鎌倉幕府時代以前より早く立庄した加斗庄を以って加斗、大島の二村を神戸郷と云われました。又は大飯郷に包括されたようです。

 弘仁14年(824年)には敦賀郡に、その後室町時代になって嶺南を遠敷郡、三方郡の二村に分け、天長2年(825年)には遠敷郡を更に分けて大飯郡を分還され、ここに入りました。慶応3年(1867年)10月14日には徳川慶喜が大政を奉還し、維新の世となって各藩主はそのまま藩知事となりました。

 明治元年加斗村は小浜藩でした。
 明治3年9月17日小浜藩が小浜県となり、同4年11月21日より同6年1月14日は敦賀県に編入され、明治5年10月大小区分が改定され、本村は第大2区の5小区(鯉川、長井)6小区(岡津、本所、飯盛、西勢、東勢)に分けられ、翌年7月の改正によって小区をさらに小分けされ、組で編成されました。

 明治17年7月宮選戸長役場設置には本所7ヶ村(尾内を含む)の併合でした。
 一時1876年~1881年まで(明治9年8月21日より同14年2月7日まで)滋賀県に編入され、明治14年2月7日福井県の管轄となりました。
 明治22年4月町村制施行によって東勢、西勢、飯盛、本所、岡津、鯉川、長井の各村を合併し加斗村の誕生となったのです。
 本合併については長井、鯉川、岡津は異論はなかったのですが、飯盛は独立を主張し、また、東勢、西勢は二村のみの合併を主張し尚、本所は本所と大島とを加えて本所としての、独立を要望したのであるが、その間幾多の問題にぶつかりながら、7ヶ村の合併となりました。

 昭和30年2月21日に加斗村が小浜市へ合併し、長年の間、苦楽を共にしてきた長井部落が加斗村から分村して大飯町と合併し、加斗は東勢、西勢、荒木、黒駒、法海、下加斗、上加斗、岡津、鯉川の9地区となり現在にいたっています。