民話

玉椿姫(八百比丘尼)

 昔々、東勢の高橋川のほとりに高橋権太夫さんという人が住んでいました。
権太夫さんは大金持ちで、村人は「高橋長者」と呼んでいました。

 高橋長者の八つの蔵には、金銀やいろいろな宝物がいっぱい詰まっていました。この高橋長者は船持ちで、大勢の船頭さんや水夫さんを使っていました。
 ある日、高橋長者は遠い唐(中国)や天竺(インド)にまでも行ってみたいものと思い、船をどんどん沖へ漕ぎ出しました。そして、何日も進んでいくと竜宮に着きました。高橋長者は竜宮のお客さんになって、毎日毎日ごちそうになったり、おもしろい遊びをしたりして暮らしていました。

 ある日、高橋長者は、何かの用事で竜宮の調理場の近くを通りかかりました。その時、ふと目に付いたのが、料理人が小さな女の子をまな板に乗せて調理をしているところでした。高橋長者は驚いて、座敷に帰って皆に言いふらしました。それを聞いた人たちは、「人魚だ!人魚だ!」と言い出し、みんなで相談して、その料理を食べないことにしました。
 高橋長者はふと東勢のことを思い出して、暇を告げました。竜宮の主人は名残を惜しみ、
「今日の第一のごちそうに魚の料理を出しましたのに、
 食べていただけないのはとても残念です。」
と言って、料理を竹の皮に包んでおみやげとして持たせてくれました。
 船に乗って帰る途中、海の中を人魚らしいものが泳いでいるのに何度も出会いました。無事に東勢の家に戻った高橋長者は、包み物を家の戸棚の中にしまいました。ところが、つまみ食いの好きな長者の娘が、父親が持ち帰った料理がとてもうまいので、ちょっと食い、ちょっと食いして、とうとうみんな食べてしまいました。

 それから、娘は、顔は白玉のように美しく、姿は白百合のようにしなやかになり、知恵は万人に優るようになりました。村の人々は、この娘を見て、「これはただの娘ではない。神仏の再現であろう。」と噂をしあっていました。
 年とともに健康な体になっていく娘は、数十年たっても20歳ぐらいの若々しい姿のままで、何一つ変わることはありませんでした。

 娘は102歳のとき、ふさふさとした黒髪をそり落として、尼さんになりました。そして、日本全国を巡り歩きました。ここに50年、あそこに100年と、いたる所にお堂を建てて住まい、道が無いところに道をつくり、橋の無いところには橋をかけました。五穀が不作の年には増産の技術を教え、ある地では人々に仏心を説き、道徳や礼儀の道を授けるなど、毎日せわしい日を過ごしていました。

 やがて、巡り歩くことも嫌になり、今から約500年前(後花園帝の御代・宝徳元年)、若狭の国に帰り、神明神社のそばに小さい庵を建てて住まうことにしました。
 しかし、その翌年には、もはや世の中に生きるのにも飽きて、後瀬山のふもとにある岩穴(空印寺の境内)に入定してしまいました。

入定する時、
 『たのみなば 命のほどや ながからん いわまのしずく つきぬかぎりに』
という歌を詠みました。
 娘さんは、岩穴に入ってからも、「この鐘の音が聞こえんようになったら、私が死んだと思うておくれ。」といって、チンチンと鐘の音はいつまでも聞こえていました。

 世の中の人は、この娘さんのことを八百比丘尼と呼び、またの名を白比丘尼、玉椿姫と呼んでいます。白い椿の花がとても好きで、いつも持ち歩いていたことから、世の人はそう呼んだのでしょうか。

【東勢区】