明治の女流歌人 山川登美子(やまかわ とみこ)
明治12年(1879年)7月、現在の千種一丁目旧小浜藩士山川家に生まれました。
大阪・梅花女学校に学ぶころから与謝野鉄幹に師事し雑誌「明星」に投稿。大阪の鳳晶子(のちの与謝野晶子)とは良きライバルとなり、増田雅子とともに歌集「恋衣」を出版しています。「わが息を芙蓉の風にたとへますな十三弦をひと息に切る」など熱い胸中を詠み明治を代表する女流歌人になりましたが、結核を患い、明治42年4月小浜で29歳の生涯を閉じました。病床で詠んだ短歌は歌集にまとめられています。
現在、登美子の生家は、国の登録有形文化財に指定され、登美子の遺品や生い立ち等を紹介する山川登美子記念館として公開されています。
市内の寺院、発心寺に墓碑があります。
下記のように小浜公園入口付近、小浜公園(海望山中腹)に歌碑が置かれています。
『 髪ながき少女とうまれしろ百合に 額は伏せつつ君をこそ思へ』 |
『 幾ひろの波は帆を越す雲に笑み 北国人と歌はれにけり』 |
軍人(艇長) 佐久間勉(さくま つとむ)
明治12年(1879年)9月、現在の若狭町で生まれました。
明治30年(1897年)、小浜中学校(現在の若狭高校)、東京の攻玉社海軍中学校を経て、海軍兵学校に入学後も母校のためにボートの設計図などを贈っています。その後海軍大尉となり、明治43年4月15日、山口県・新湊沖で、艇長として乗組んだ潜水艇が潜航訓練中に故障のため遭難、全員が殉職しました。殉職した艇長の胸ポケットには、事故の状況を克明に記録した手帳がありました。その冷静で勇気ある行動が大きな感動を呼びました。
その死に瀕しても職責を全うした姿を称え、毎年4月15日に顕彰祭が開催されています。
小浜公園(海望山中腹)に銅像があります。
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