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空印寺(酒井家墓所)

最終更新日:2023年10月1日

ページID:5269

酒井家墓所

◆所在地◆

 小浜市男山2(空印寺境内)

◆電話◆

 0770-52-1936

◆アクセス◆

 JR小浜駅より1.0Km(駅にレンタサイクル・電動有り)

◆概要◆

  酒井家墓所のある空印寺および小浜小学校の地は、大永2年(1552)武田元光が後瀬山築城の際、堅固な城館(旧小浜城)を構築した処で、以後、京極高次の雲浜築城に至るまで一国支配の本拠でした。

 高次没後、嗣子忠高はこの旧地を父の牌所とし泰雲寺を建立したが、寛永11年(1634)松江に転封。同年入部した酒井忠勝は、父忠利の霊骨を移して建康寺と称しました。寛文年中、2代忠直が堂宇大修造のとき、祖父の法号をとって建康山空印寺と改め今日に至っています。

 八百比丘尼の入定を伝える霊窟のあたり、豪壮な山門を通して桁行十一間の大きな本堂がみえます。酒井家墓所は寺域の南西にあって、この本堂右側から参道が通じています。墓域は面積約600平方メートル、土塀で四周を区画しています。

 歴代藩主墓は、南川最右端に忠利(ただとし)夫妻を配し、左に①忠勝(ただかつ)・2忠直(ただなお)・3忠隆(ただたか)・4忠囿(ただその)・5忠音(ただおと)・6忠存(ただあきら)・7忠用(ただもち)と連なるが、8忠與(ただよし)・9忠貫(ただつら)・10忠進(ただゆき)・11忠順(ただより)・13忠氏(ただうじ)の各墓は配置がやや異なっています。

 材は花崗岩、総高3.8メートル、圭頭型竿石は高さ2.73メートル、台石は2段で概ね一枚石、何れも竿石の表裏に、法号、官職位階、没年等を刻しています。中央部右側にある酒井家之墓所は、大正13年(1924)東京本邸内の墓地改葬に当っての造立で、地下には納骨の設備があります。

 墓域には前記藩主墓の他忠勝の長子忠朝(ただとも)以下11基の子女墓があり、西北には区画された分家墓所があります。

 近世238年間、終始若狭に君臨した酒井家の墓前に佇(たたず)むとき、その絶大な権威と表裏した庶民の哀歓を思い、ときの流れの偉大さを感ぜずにはいられません。

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文化観光課

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