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常高院、杉田玄白、中川淳庵、綱女

最終更新日:2023年10月1日

ページID:5285

お市の次女 常高院(じょうこういん)

 永禄11年(1568年)信長の妹お市の方と、江州・浅井長政の次女として生まれました。幼名はお初。姉は淀君、妹は徳川秀忠の正室で家光の母となった小江の方。

 京極高次に嫁し、関ヶ原戦には大津城で、高次と共に戦いました。高次が若狭小浜に転封となった後、大坂夏の陣では、豊臣方と徳川方の間にたち和睦につとめました。

 寛永7年(1630年)後瀬山西北麓に伽藍を建立し、凌霄山常高寺と名付けて自ら開墓となり高次の菩提を弔いました。

 この肖像画は県指定文化財・絵画「絹本著色京極高次夫人像」。作者は不明ですが、温和な願容の中に叡智の眼を据えて半身の構えに時勢のきびしさを感じさせるなど、常高院の姿をよく著しています。

小浜藩医 杉田玄白(すぎたげんぱく)

杉田玄白像

 享保18年(1733年)9月、江戸・小浜藩下屋敷で藩医の子として生まれました。

 オランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を手に入れると小浜藩医中川淳庵らと実際の解剖に立会い日本語へ翻訳する必要を感じます。安永3年(1774年)、中川淳庵、中津藩医前野良沢と共に「解体新書」を刊行、西洋医学を日本に取り入れました。このときのことを「蘭学事始」に著しています。

 杉田玄白記念公立小浜病院玄関前には、銅像が置かれ、病院内には杉田玄白に関する展示コーナーが設けられています。

小浜藩医 中川順庵(なかがわじゅんなん)

中川順庵

 元文4年(1739年)、江戸で小浜藩医中川家に生まれました。

 杉田玄白らとともに、オランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳するため、オランダ語のアルファベットからはじめるという大変な苦労をしました。その後、安永3年(1774年)「解体新書」を刊行、日本の医学の進歩に著しく貢献しました。

 青井の高成寺境内に顕彰碑が建てられています。

 画像は、小浜市立図書館 編集『若狭人物叢書 中川淳庵』より高浜町和田 中川嘉夫氏 所蔵

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