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【箸産業について】
塗箸は全国の九割の生産量を誇る産業です。若狭塗箸は貝殻や金銀箔を漆で何度も重ねて塗ったあと、美しい紋様を研ぎ出す高級品から、モダンなデザインのものまでバリエーションが豊富です。
箸の専門店もあり、小浜を代表する物産のひとつで、8月4日には箸を供養する「箸まつり」も行われます。
【若狭塗りのはじまり】
若狭塗は小浜藩の御用塗師「松浦三十郎」が支那漆器の一種存星をヒントに、海底の様子を意匠化して考え出したのがはじまりです。
江戸中後期にかけては若狭塗の黄金時代で、箔押し研出し技法(青貝・卵殻)、螺鈿以外にも蒔絵の技法も併用され、200種以上にも及ぶ塗手法が完成されていたと言われています。
所在地
小浜市小浜広峰~京都出町
利用時間
-
駐車場
あり(付近の市営駐車場)
トイレ
-
周辺情報
JR小浜駅から徒歩10分
その他
小浜ではよく「京は遠ても十八里」と言われ、
「遠ても」という言葉には「京は近い」という思いが
込められています。鯖をはじめとする多くの
海産物や物資を運び文化交流の道ともなった
街道を、近年「鯖街道」と呼ぶようになりました。
「遠ても」という言葉には「京は近い」という思いが
込められています。鯖をはじめとする多くの
海産物や物資を運び文化交流の道ともなった
街道を、近年「鯖街道」と呼ぶようになりました。
【鯖街道の由来】 小浜に伝わる古い文書で『市場仲買い文書』というのがあり、その中に「生鯖塩して荷い、京へ行き任る」という文章があります。 若狭から運ばれた鯖が、京の都へつく頃には丁度よい塩加減になったという意味ですが、いまも京の食文化の中に若狭の魚が生きているようです。 しかし、若狭から運ばれたものは鯖だけでなく、いろいろな海産物や文化が運ばれ、そして京からも雅やかな文化や工芸品などが小浜に入ってきました。 「鯖街道」という名前は、小浜から運ばれた代表的なものが鯖であったという事のようです。
【鯖街道の歴史】 板屋一助が1767年に著した『稚狭考』によると、本来は能登沖の鯖が有名で、それが獲れなくなり、若狭の鯖が有名になったということのようです。 それらを運んだ鯖街道は1本だけでなく、5本ほどあったようです。 その中でもっとも盛んに利用されたのが、小浜から熊川宿を通り滋賀県朽木村を通って、大原から鯖街道の終点といわれる出町に至る若狭街道です。 この道では大きな荷物を馬借という馬による輸送を行っていたようです。 さらには、小浜から北川の水路を使い馬で峠を越え九里半街道から今津に出て、琵琶湖を使って京へ運んだ水路もあったようです。 また、京への最短距離をとる峠道として、「針畑越え」があり、この道は鞍馬経由で京都出町に至っています。 また、堀越峠を越えて京都高尾へつながる「周山街道」や、美浜町(現在若狭町)新座から滋賀県マキノ町へ抜ける「栗柄越え」や、遠く兵庫県の篠山までもつながっていたといわれます。 これらの鯖街道のルーツは、奈良、飛鳥時代に若狭の国が「御食国」と呼ばれ、朝廷に税として塩や塩漬けした魚介類を納めていた頃に遡ります。 かつてこの若狭は「裏日本」ではなく、大陸文化を受け入れる表玄関となっていたところです。 良好なリアス式海岸を持つ若狭湾は絶好の漁場であり、それらの魚は塩漬けにされ、朝廷に貢いでいたことは、平城京跡から多数の木簡が出土されていることで証明されています。 若狭の海の幸は奈良の高官の口を楽しませ、やがて京へ都が移ってからも、京の都の人々に「若狭もの」と称され、「若狭かれい」「若狭ぐじ」と今も京料理には欠かせないものとなっています。現在の日本は、多くのサバをノルウェーから輸入しており、これを指して、ノルウェーから日本への空路を「現代の鯖街道」と呼ぶ人もいます。
【鯖街道を歩く】 現在、最もポピュラーな鯖街道は、小浜から熊川宿を抜け、朽木、大原、出町へと続く道ですが、特に熊川宿は人家の前の、生活用の前川と呼ばれる小川が流れる古い町並みを整備し、昔のまんまの風情を取り戻して多くの旅人の人気を集めております。 朽木村から大原へ抜ける道は、近年整備され道幅も広くなってより多くの車が楽に通れるようになり、花折峠と朽木村の間は、別名「鯖寿司街道」と呼ばれるほど鯖寿司屋が店を連ね、多くの旅人が車を止めて買い求めているようです。
(田村長HPより引用)