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小浜市


絹本著色酒井忠勝肖像画 1幅


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指 定 所在地 管理者
平成4.2.26 市指定 小浜市大手町 小浜市


 忠勝は、天正15年(1587)三河国西尾に誕生、父備後守忠利とともに徳川家康に従い、関ヶ原で初陣を果たした。
 元和6年(1620)には徳川家光の小姓となり、同8年には武州深谷に1万石を与えられて大名に列し、同9年家光が将軍になると、翌寛永元年(1624)に老中となった。
 また、同4年には父の遺領を継いで川越に移り、同11年には、若狭三郡及び越前敦賀郡、近江高島郡など11万3千5百石を拝領、同年8月に初めて入国した。
 その後、京極氏が築城を始めた小浜城を完成させるなど、以降14代、235年間にわたる小浜藩の礎を築いたが、若狭在国は極めて少なく、寛永15年には大老となるなど、幕政の中枢にあって、いかに多忙であったかが判る。
 晩年は、明暦2年(1656)に家督を実子忠直に譲り、万治3年(1660)日光で剃髪、空印と号したが、寛文2年(1662)76才で江戸牛込の藩邸に没し、同邸内の長安寺に葬られた。
 讃岐守忠勝は、「酒井忠勝書下」など多数の記録から、武人としてよりはむしろ、家光・家綱両将軍に近侍した官僚として卓越した行政手腕を発揮したことが窺える。
 また、天海を初め高僧との交際も盛んで、京都万福寺の堂宇を建立し、千両の寄進を行うなど信仰心も厚く、本肖像の賛は、黄檗宗開祖隠元の手になるものである。
 本図は縦127.0p、横57.0pの絹本に描かれ、製作年代がはっきりしないが、賛にめでたい語句が見られることや、万治3年に忠直が狩野栄心を召して絵を命じた記録がある事などから、忠勝剃髪時の寿像と考えられる。
 生涯を通じて質素堅実を貫いた忠勝の、最晩年の風貌を見事に表現した唯一の肖像画として甚だ貴重である。