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和久里区


宝篋印塔 1基


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指 定 所在地 管理者
平成8.5.31 県指定 小浜市和久里21-7 和久里区


 和久里、西方寺の境内に建つ市の塔は、花崗岩製のほぼ完全な宝篋印塔で総高3.5mに近く全国の著名な石造遺品と比較しても何ら遜色のない超大型の優品であるが、特に残存するさまざまな痕跡と、遺存の大小風鐸から復元可能な往時の華麗な装飾は、刻名に見える延文3年(1358)造立の大願主沙弥朝阿のただならぬ悲願と共に、市神(蛭子神)と並んでこの塔に霊験を祈拝して荘厳を怠らなかった庶民の篤い信仰を物語っている。
 塔の造建者はもと南朝の代官として小浜に住した長井雅楽介であるが、南北朝争乱の転変から延元2年(1337)家出遁世して朝阿弥と号し、和久里に西方寺を営んで住持となり、延文3年の本塔供養に続いて翌4年には戦乱で廃壊した羽賀寺の修造に多大の助力があったという。
 塔の原位置は定かでないが、慶長12年(1607)京極高次が起した沼、葭原の埋立による突抜・市場上下町の完成から、同年市蛭子社が勧請されており恐らくその頃この塔も市場に移建され、毎月2・7の6回、市日の殷賑を見守ったのであろう。寛永3年(1626)には市祭の能が奉納されている。しかし同17年(1640)には西部町衆の願いで八幡宮前永三小路の市場(市日は同じ)に移され元和2年(1616)勧請の蛭子社と共に「市塔尊」と信仰され、毎年1月31日には八幡社地で市祭りの演能があった。のち塔は故あって明治6年(1873)朝阿弥の故地・和久里に移建されたが、今も永三小路では元文5年(1740)面山禅師自筆の「若州小浜府宝篋印塔再興記」をかっての市塔尊として供養崇秘している。
 本塔は小浜の庶民信仰を物語る歴史の道標である。