髪ながき少女にうまれしろ百合に…
しろ百合の君 山川登美子

与謝野鉄幹が主宰する文芸雑誌「明星」で一躍その名を歌壇に轟かせた山川登美子。
1879年(明治12年)登美子は現在の若狭小浜の地で誕生しました。代々小浜藩主に仕えた由緒ある家柄に生まれ、両親の愛情を受け才色兼備の良家の子女として育ちました。
大阪の梅花女学校に進学した登美子は知識と教養をさらに積み重ねます。そして、短歌の師である与謝野鉄幹と歌友である鳳(与謝野)晶子らと運命的な出会いを経て、益々和歌に魅せられていくこととなります。

短歌の世界を知り充実した生活を送っていた登美子でしたが、そんな娘に父親が縁談を勧めました。胸に秘めた師鉄幹への慕情と、歌に対する限りない憧れが募るばかりの登美子は葛藤の末、結婚に踏み切ります。しかし、その夫は結婚直後に結核に侵され、登美子の懸命な看病の甲斐もなく2年後に亡くなりました。

短歌の第一線から遠ざかった年月を経て、登美子は再び新たな希望を胸に上京しました。日本女子大学に進学し、『明星』に返り咲くことになります。そして唯一の歌集『恋衣』を刊行しました。

髪ながき 少女とうまれ しろ百合に 額は伏せつつ 君をこそ思へ

『恋衣』には、この第一首目の歌を含む「白百合」と題する百三十一首の歌が収められています。
その後、夫からの感染により結核が発病。京都での療養生活を経て帰郷し生家にて1909年(明治42年)満29歳の短い生涯を閉じました。

登美子と鳳(与謝野)晶子
登美子<写真左>と鳳(与謝野)晶子
山川登美子と与謝野晶子

雑誌「明星」の投稿により互いの存在を知ることとなった山川登美子と鳳(与謝野)晶子。
「登美子」は『しろ百合』、「晶子」は『白萩』に例えられ、ひとつ年下の登美子は、晶子を姉のように慕っていました。
共に短歌の師と仰いだ与謝野鉄幹の存在は、二人の短歌創作の意欲を掻き立てる存在でした。そして、互いに師鉄幹に恋心を抱くことになります。

しかし、父の薦める縁談に従い、自らの新しい道を歩む決心をした登美子。

それとなく 紅き花みな 友にゆずり そむきて泣きて 忘れ草つむ

鉄幹への溢れる想いをそっと胸の内にしまった登美子の心の叫びが、歌となって表現されています。
後に、新詩社三女流の登美子・晶子と増田雅子は鉄幹の企画による合著歌集「恋衣」を刊行しています。

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