宮川は弥生時代中期の土器が加茂遺跡から発見されており、この時期から稲作が営まれていたと考えられてます。
古墳時代には、巨石を使った加茂古墳がつくられ、この地域に強力な権力を持った族長がいたことを証明しております。また宮川地区内には数多くの古墳群があり、早くから栄えていたと思われます。
そのほか加茂の一部で条里制の遺跡が土地改良前まで残っていましたし、大谷には製塩土器の産地遺跡も確認されております。

中世になり、京都の東寺に伝えられる「若狭国惣田数帳」(大田文)に初めて宮川保、賀茂庄の記述があり、当時の政府に認められた地域でした。
また平家物語や吾妻鏡に宮川保の地頭に源頼政の名が記されています。源頼政は、百人一首で有名な二条院讃岐の父で、宮中で怪鳥を退治した武将で、その恩賞として宮川保を領することになりました。

戦国時代には宮川にも山城が築かれ、新保の霞ヶ城、加茂の加茂城など他にも数ヶ所の山城が確認されており、宮川はこの地方の戦略的な位置を占めていたようです。

明治維新になり、宮川村は明治17年竹長村外4ヶ村連合村となり、これが実質的な宮川村の発足でした。竹長村に戸長役場を設置し(戸長 楢木四郎左衛門)村行政を行い、明治21年町村制交付により宮川村(初代村長楢木四郎左衛門)となり、明治28年竹長に宮川村役場を建設し、昭和11年加茂の悠久銀行の建物(現旧公民館)へ移転しました。
昭和28年町村合併促進法が施行され、宮川村にも合併の問題が提起され、合併相手を小浜市か、上中町かで村内の世論が別れ、住民投票の結果、僅差で小浜市への合併が決定し、昭和30年小浜市と宮川村が合併、現在の小浜市宮川地区となりました。