宮川地区は小浜市の東端にあり周囲を山々に囲まれた自然がいっぱいの地域です。人口は約750人、戸数260戸余りで小浜市の12地区のうち最も小さく、加茂、大戸、新保、大谷、本保、竹長の6つの行政区から成り立っています。
地区の真ん中を野木川が流れています。地区内へのアクセス道路は、国道27号線からは平野から県道本保平野線(県道219号)で本保までと、一般農道で若狭町玉置から本保までの2ルートがあります。
最寄のJR駅は、小浜線の新平野駅で地区の中心まで約3kmあります。
昭和30年小浜市に合併するまでは、遠敷郡宮川村として存立し、地域の気風は優れた自然環境と地形のせいか、何事もまとまりやすく、他地区に先駆けて物事に取り組む進取の気鋭がある地域です。
昭和28年県下に先駆けて有線放送事業を開始、また昭和37年には県下で最初のライスセンターを建設し、地区の主要産物である米の一貫調整を実施してきました。
下水道事業も、小浜市では初めて地区一体で取り組み、平成6年に完成しました。 平成11年には、宮川地区長期計画を策定し小浜市の進める「いきいき街づくり事業」のモデルとなりました。 また、長期計画に基づき、土地改良再整備事業に取り組み平成18年度完成ました。
この事業とあわせて実施してきた一般農道新設事業、福祉施設誘致事業、住宅団地誘致事業、新保砂防ダム(貯水)新設事業もほとんどが完了しました。
福祉施設として、社会福祉法人積心会 の 特別養護老人ホーム「ひまわり荘」、グループホーム「ひまわりの郷」があります。
住宅団地として、ひまわり台 があります。
平成28年からは、農地集約化による低コスト農業を目指し、「株式会社 若狭の恵」が設立され、大区画の田んぼで大型機械がうなりをあげて活躍しており、農業の先進地域として脚光を浴びています。
「春は菜の花」「夏はひまわり」「秋はコスモス」の作付けを行い、地区内外、県外の方々に訪れて頂いています。また、「花の里づくり」を推進するため、「通学路花いっぱい運動」を行っています。
また、平成28年より、小浜市が推進する「地域協働型まちづくり事業」に賛同し、「宮川まちづくり協議会」を発足し地域振興に取り組んでいます。
加茂区には、弥生中期から鎌倉期の加茂古墳が多数存在し、宮川地区内でも最も早く開かれた集落であります。
そうしたことで、集落内に歴史的な文化財や天然記念物が数多く残されています。
国指定の文化財が1件、県指定が2件、市指定が6件、合わせて9件の指定文化財を持ち、市内でも有数の文化財の宝庫となっています。
大戸区は、宮川の入り口に位置するこじんまりとした小さな集落です。
大戸区には弥和(みわ)神社という社の無い神社があり、地元では「さいの神」と呼んでいます。 かつては、「さいの神」の祭日に、丈夫でない子を社前に捨てて大戸の人に拾ってもらうと健康に育つといういわれから、しばしば仮の捨て子も行われていたようです。捨て子はどこの者でも良いのですが、拾うのは大戸の人でないと効力がないと信じられていました。
新保区は、宮川地区の中心部より東部に位置する農村集落です。
平成9年からの土地改良再整備に合わせて新保北川砂防(貯水)ダムが完成、また永年の悲願でありました新保南川・北川両河川の一体化整備と新保幹線道路改修の完成により集落の景観が一変しました。
古くは、区の東部に鎮座する大幡彦姫神社の社名からも新保村の旧称は大幡村(伴信友「神社私考」)であると考証されています。集落の北西谷間に所在する青雲山竜泉寺は霞美ヶ城(新保山城)城主、武田信高の創建(天文10年)です。
五穀豊穣の信仰は、現在も「戸祝い」や「子供神輿」など伝統行事の中に受け継がれています。
竹長区は宮川地区のほぼ中央に位置し、宮川小学校、宮川保育園があります。
明治28年から昭和11年までの約40年間宮川村役場があり、明治から昭和初期にかけて宮川の中心地として位置づけされてきました。
氏神は日枝神社をお祭りし、集落センターには薬師如来が安置されています。また雨乞いで有名な「明神池」には「蛇木」が沈んでいます。宮川地区では最も小さい区ですが、区内の融和と活性化に取り組んでいます。
大谷区は、北川の支流である野木川の源流となっており、昔からこの水で栽培した大谷の米はおいしいと評判です。
また、大谷区は、さらに小沢寺,中大谷,矢袋に分かれています。小沢寺には、不動の滝があり、この滝は小浜市の「人の駅」にもなっています。中大谷には、貴船神社があり、この神社は京都の貴船神社を元宮としています。矢袋には、源
頼朝の石碑があります。昔話で「ぬえ」という化け物を頼朝が退治した時に使用した矢の材料として矢袋の竹を使用したことから、「矢袋」という地名がついたという言い伝えがあります。
本保区は宮川地区の北西に位置し、杉や檜などの常緑樹が多い山が背後にそびえ、そのふもとに集落が点在し、その前面に整備された広々とした美しい水田があります。
6つの班(町)割りがあります。区には上下(かみしも)それぞれに、神社、観音堂があります。宮川地区内でも特に積雪が多いことから、生活基盤の確保のために、7m幅の道路拡張工事を早くから進めました。そして、数年前には区の中央にある良継寺の改築に取り組むなど、当区のまとまりは格別のものがあります。
宮川は弥生時代中期の土器が加茂遺跡から発見されており、この時期から稲作が営まれていたと考えられてます。
古墳時代には、巨石を使った加茂古墳がつくられ、この地域に強力な権力を持った族長がいたことを証明しております。また宮川地区内には数多くの古墳群があり、早くから栄えていたと思われます。
そのほか加茂の一部で条里制の遺跡が土地改良前まで残っていましたし、大谷には製塩土器の産地遺跡も確認されております。
中世になり、京都の東寺に伝えられる「若狭国惣田数帳」(大田文)に初めて宮川保、賀茂庄の記述があり、当時の政府に認められた地域でした。
また平家物語や吾妻鏡に宮川保の地頭に源頼政の名が記されています。源頼政は、百人一首で有名な二条院讃岐の父で、宮中で怪鳥を退治した武将で、その恩賞として宮川保を領することになりました。
戦国時代には宮川にも山城が築かれ、新保の霞ヶ城、加茂の加茂城など他にも数ヶ所の山城が確認されており、宮川はこの地方の戦略的な位置を占めていたようです。
明治維新になり、宮川村は明治17年竹長村外4ヶ村連合村となり、これが実質的な宮川村の発足でした。竹長村に戸長役場を設置し(戸長 楢木四郎左衛門)村行政を行い、明治21年町村制交付により宮川村(初代村長楢木四郎左衛門)となり、明治28年竹長に宮川村役場を建設し、昭和11年加茂の悠久銀行の建物(現旧公民館)へ移転しました。
昭和28年町村合併促進法が施行され、宮川村にも合併の問題が提起され、合併相手を小浜市か、上中町かで村内の世論が別れ、住民投票の結果、僅差で小浜市への合併が決定し、昭和30年小浜市と宮川村が合併、現在の小浜市宮川地区となりました。
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