海に面し、山裾には丹後街道が走る要害の地に築かれた後瀬山城は、大永二年(1522)、若狭守護武田元光によって築城されました。その後、京極高次による小浜城築城が開始されるまでの約80年間、歴代若狭国主の城として存続し、山上の城、山下の館で構成されています。
若狭武田氏は応仁・文明の乱までは、京都に居住し、武門の名家として室町幕府を支えるとともに、都の一流の文化人・公家たちと交流し、和歌・連歌などの文芸もたしなんでいました。元光が後瀬山に築城し、若狭に常住するようになってからは、都の戦乱を避けた文化人たちが、武田氏を頼って多く若狭を訪れ、館では都の連歌師を迎えてしばしば連歌会が行われました。
街道を通じて若狭に入ってきた都の洗練された文化は後瀬山城に集い、若狭に文芸の花を開かせました。