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伏原区


後瀬山城跡

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指 定 所在地 管理者
平成9.5.23 国指定 小浜市伏原・大宮・男山・鹿島・浅間


 戦国時代の大永2年(1522)若狭守護武田元光が、小浜市街地の南にそびえる万葉の名山、後瀬山に築城。その後、天正元年(1573)に入部した丹羽長秀の補強をうけたが、慶長6年(1601)に始まる小浜城築城により廃城となるまで、歴代若狭国主の在城する処であった。
 守護館は城の北麓(空印寺と小浜小学校の所在地)に東西110m、南北120m(堀を含む)を占地し東・北・西の三方に、外は現市街地に及ぶ二重の塁濠を連ねる堅固な城館であったと伝える。
 城は山頂(標高168m)に主郭(名称の伝えは皆無)を、館を取り巻く各稜線に郭群を配し、巨大な竪堀群と畝堀、空堀と土橋、稜線の郭群を相互に繋ぐ横道や城道の備えなど、予想戦場に濃密な万全の戦闘配備を施す一方、連携する出城は山系の連なる先端・湯岡山に及んでいる。
 主郭に近接する西南の郭約630uは、昭和63年度発掘調査の結果、再築の土塁と築山、礎石を伴う建物遺構(約16m×8m)を検出、伴出の茶器類もあって、戦闘よりも勝景・観月や文芸などを楽しむ山上御殿跡と推定された。なお当城での戦闘は朝倉勢を迎撃した永禄11年(1568)8月13日の合戦で、武田最後の城主、元明が降伏、越前にら致されて以来記録はない。いま山頂に鎮まる愛宕神社は元和元年(1615)の創建と伝え、その頃、東北山麓からの現参道が通じたとみられるが、旧城道の利用は山上の一部に限られる。
 『拾椎雑話』の題名に潜む後瀬山の椎の実は、古来若狭の名産とされたが、いまは拾椎の人もいない。