
※画像クリックで拡大写真

|
指 定 |
所在地 |
管理者 |
|
平成19.4.20 県指定 |
小浜市伏原 |
曹洞宗発心寺 |
|
武田大膳太夫元光は、若狭守護職武田元信の子として誕生、大永元年(1521)父の没に伴って家督を相続し、同2年には後瀬山に居城を築き、その山麓に守護館を移し、戦国大名としての体制を整えたと考えられている。
元光が守護職にあった時期は若狭国内外ともに大乱に見舞われた時期で、享禄3年(1530)出家して大膳太夫入道宗勝となって発心寺に隠居した。その後も国政の実権を掌握していたようで、天文8年頃に家督を実子の信豊に譲り、ついに天文20年(1551)に没し同寺背後の墓所に葬られた。法号は、発心寺殿天源宗勝大居士である。
発心寺には、同寺の開基となった元光の法衣姿の木像が伝えられている。この像は、若々しい雰囲気を感じさせるが、着衣は同寺に遺される頂相に描かれた姿に酷似し、構造や像の様相から没後に制作されたものと考えられる。
なお、江戸時代に編纂された『若狭郡県志』には、「谷田部村長徳寺中有僧形之木造、相傳、武田元光之像而自作也、近世寺僧請取其像、携来而安寺彿傍。」とある。また、『拾椎雑話』は、「矢田部村雲外寺は小浜栖雲寺潤甫和尚の山荘也。和尚は元光公の兄也。年経て寺荒廃せり、傍に小茅舎有、木像を置、是を御影様と斗申伝へてしる人なし。是元光公の像なり。元禄の頃発心寺へもらはれ候。」として元光像であることを強く述べている。
若狭武田氏歴代では唯一の木像で、像高は59.0p。室町時代末期頃の作と考えられるが、守護職であった元光の生前の雄々しき姿を伝える貴重な像である。
|
|