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指 定 |
所在地 |
管理者 |
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平成11.4.23 県指定 |
小浜市浅間 |
臨済宗妙心寺派常高寺 |
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寛永7年(1630)後瀬山西北麓の栖雲寺を山下に遷し、改めて跡地に伽藍を建立、凌霄山常高寺と名付けて自ら開基となったのが栄昌尼公、すなわち常高院である。
栄昌尼公は、江州浅井長政の息女、信長の妹のお市の方の腹に生まれた三姫の中女にあたる。姉は淀君の方、妹は徳川秀忠の御台所となり、家光の母堂となった小督の方である。
彼女は豊臣秀吉の媒介によって京極高次に嫁ぎ、関ヶ原戦には大津籠城に際して高次の戦功に寄与したという。若狭に転封の後、大阪夏の陣には城中と攻囲軍の間に在って和睦周旋にあたったことも著名である。
夫高次の死に遭ってから仏門に入り、只管亡夫の菩提を弔うのと、修禅ためにこの禅刹を建立したのである。
この肖像画は誠によく尼公の風姿を示しており、宰相夫人としての威を遺憾なく示している。そして温和な顔容の中に叡智の眼を据えて半身の構えに時勢のきびしさを感じさせる。
浅井長政夫人像の安土時代女人正装図と江戸初期の女人法衣図と比べて意義が深い。淀君をしのぶ画像のない今日、まことに尊い彩色豪華画像である。
画絹の法量は縦117.7p×横51.5pである。
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