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指 定 |
所在地 |
管理者 |
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昭和57.4.20 市指定 |
小浜市志積 |
個 人 |
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安倍家は小浜市志積(もと内外海村に属した漁村)に在り、鎌倉初期以来この浦の刀祢職を継承し、近世には庄屋をつとめた伝統ある旧家である。安倍家文書は鎌倉初期より明治中期に及ぶ漁村、漁業史、更には日本海の交易経済発達史の研究上、国指定となった秦文書と並んで貴重な価値を有する資料である。
平安朝初期には既に開発され、陽成院領となっていた志積浦がその後天台座主良源の所領となり、以来この浦の山門とのつながりが深まった。これらの文書が安倍氏に伝存するのは同氏が志積刀祢として十禅師、客人社の祭礼料田を管理し、祭礼に奉仕する役割を担っていた関係上、代々に伝えられたものである。
鎌倉期に志積住人らが日本海沿岸の廻船業を主たる生業としていた事実を実証する貴重な資料もあり、副進文書目録に、西山宮御代御免除状案、座主宮令旨案、青蓮院令旨案等々が列記されているので、この廻船が山門や青蓮院の保護をうけ津料等を免除されていた事が推定されるが、この時は越前国阿須和(足羽)神宮寺の越後房が三国において船中積荷の米六斗を押え、その特権を侵害したため、廻船人らが子細を訴えた事情がわかる。
近世文書では国富の奈胡・熊野両村が多年に亘り「預り料」を支払って志積浦持山の一部を借りていた事実、刀祢家が代々相伝の網場を有した事実、また近隣浦々との間に漁場争論の生じ易かった事情などが注目される。
天保15年(1844)浦へ鯨が流れついたなど、明治期における張網漁業の網場とその所有者を書き上げた記録もあって貴重な資料である。
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