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指 定 |
所在地 |
管理者 |
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昭和53.7.25 県指定 |
小浜市金屋 |
高野山真言宗萬徳寺 |
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中阿鋡経は四阿鋡経の一つで60巻あり、奈良時代の代表的な経典として盛んに写経されたものである。
釈迦入滅後、その教説を記録した経典は仏・法・僧とよばれる三宝中、法身の舎利として恭礼され、伽藍・尊像の造建とならんで写経の盛行をみたが、特に天平6年(734)写経司の設置をみるに及んで、質量ともにわが国写経史上の黄金時代を現出するに至った。
この当時写経された一切経(大蔵経ともいい、仏典を集大成したもの)は、開元禄にもとづいて一部5048巻であったとされるが、文献にみえる発願一切経の部数からみても其の量は尨大でまさに刮目に値するものがある。
当寺の「中阿鋡経巻第卅九」の跋に「天平宝字三年(759)十月二日 文部書生少初位上丈部忌寸濱足写」とあり、次いで参校までの校生や装生の連記がある。
また巻末には「善光」の朱印があるが、これは世に「善光朱印経」とよばれる天平一切経の貴重な遺例であることを示すものである。全体の書風は唐経を基礎とした写経体で筆力雄勁、しかも字体は端麗で、隅々までの洗練された筆跡を止めている。
この経巻は巻子本で穀紙(楮紙)23帳(17紙)を用い、字数は7,619字、法量は縦27.6p×全長860pを計る。
天平写経の記録中、天平宝字3月12日、善光印一切経(内裏蔵経)の書写がみえるが、当寺の善光朱印経との係り、また本経巻がいかにして当寺に伝来されるに至ったかは寺伝を欠いて定かでない。
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